待降節 と 四旬節 A年 2013〜2014 グイノ・ジェラールの説教



A年

2013年 〜 2014年  

待降節 と 四旬節




待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日
主の降誕の祭日 夜

四旬節第1主日
四旬節第2主日
四旬節第3主日
四旬節第4主日

四旬節第5主日




        待降節第1主日  A年    201312月1日  グイノ・ジェラール神父

               イザヤ2,1-5  ローマ13,11-14  マタイ24,37-44

    「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と預言者イザヤは励みを与えます。 私たちが神の聖性で輝いている民、主の平和のうちに栄光で包まれる家族となる為に、この呼びかけが宣言されたのです。 神が全てにおいて全てとなるので、もはや私たちは破壊するための武器や殺すための武装も要りません。 この武器はすべて人々が幸せに生き、また満腹に食べる為に役に立つ道具に変化させられるからです。 預言者イザヤの預言が実現した時、暴力、嫉妬、死をもたらす利己主義は、他者への思いやりに場所を譲るでしょう。

      さて、私たちにはイザヤの預言が実現するようにと聖パウロが急がせています。  光の良い戦いをするために、聖パウロは暗闇の行いを脱ぎ捨てるように、私たちを励ましています。  「日中歩くように、慎み深く生活しましょう。 主イエス・キリストを身にまといましょう」。 キリストを衣としてまとうことは、キリストの振る舞いを真似てイエスの眼差しで出来事と人々を見、そして神の武器である柔和、忍耐、憐みで戦うことです。

    僕が自分の主人の帰宅を待ち望んでいるように、私たちも相応しい警戒を持つようにマタイは願っています。 「人の子が来るのを」迎えることが出来る為に、私たちはノアのように「自分の箱舟」即ち、自分の心の奥深くに入る必要があります。キリストが来られる時、私たちはすぐに彼を見分ける為に、内面的に主の現存の前で留まり、用心しなければなりません。 また、主が私たちを見守っておられると同じように、私たちも周囲にいる人々を警戒して見守らなければなりません。 目覚めていて、祈り、警戒し、待つ、私たちの態度によって、一緒にいるイエスの現存のしるしを私たちは容易に見分けることが出来ます。 もちろん、約束されたようにイエスは世の終わりに戻って来られますが、しかし、この世の終わりにならなくても、イエスは毎日一緒におられます。 まして、彼の名によって祈るために二〜三人が集まっている所には、イエスは必ずおられるのです。

    私たちの間におられるイエスの現存を見つける為に、まず私たちは遠くにいる人と近くにいる人に対して、深い注意を示さなければなりません。 もし彼らが生き、望み、恐れて、また耐え忍ぶ出来事に対して私たちが無関心でいるなら、私たちは主の訪れを見逃すに違いありません。 私たちの内にある主の現存を見つけるためには、私たちは祈る時間を取らなければなりません。 「目覚めて祈りなさい」とイエスは願っておられます。 祈る事は自分が離れた人々と自分が親しく思っている人々を主に紹介する機会です。 私たちにとって祈る事は、彼らが友であろうと敵であろうと、共同体の兄弟姉妹の名を神の前で呼び、また彼らの顔を思い出す事です。  それは神の平和と和解が皆に豊かに与えられるためです。

   このようにして、希望で満たされている私たちは、暗闇をさまよう人を照らしながら、目覚めている人になるに違いありません。 従って、イエスが来られる時、ご自分の平和と光のうちにすぐ私たちを受け入れるでしょう。 さあ、皆さん、この待降節の間に、一緒に「喜びのうちに主を迎えに出かけましょう。」 アーメン。



          
待降節第2主日  A年   2013128日  グイノ・ジェラール神父

                イザヤ 11,1-10  ローマ 15,4-9  マタイ 3,1-12

    待降節第2主日に当たって、心を合わせ声を揃えて神に感謝を捧げるように、聖パウロは私たちに願っています。 同時に、神の栄光のためにイエスが私たちを受け入れって下さったように、私たちも互いに相手を受け入れることを聖パウロは乞い願っています。 洗礼者ヨハネは、心の回心、悪と悪い傾きを捨てる意志を求めています。 ご自分の現存の恵みを私たちに満たす為に来られる神を歓迎するように、私たちは非の打ち所の無い人とならなければなりません。

    預言者イザヤは、正義、忠実さ、和解と平和の幸せな時を約束します。 全てのキリスト者の共同体の中で、古い恨みを抱き、それをつかみ続ける人々がいます。 このような信者たちは兄弟の目にある小さなおが屑を 取りにくい物、即ち丸太に変化させてしまいます。 過ぎ去った日々の出来事を何度も繰り返して、相手を絶対に赦せない頑固さは魂を損ない、同時に身体の健康を悪化させます。 嫉妬、軽蔑、偽りと悪口を育てるキリスト者は、いつも共同体の中に不和の種をまき散らしています。 このように続ければ、神の国を築くことはとても無理です。 過ちの赦しを拒み、他の信者を兄弟姉妹として迎えたくないキリスト者は、自分たちの共同体を危険な状態に置いているのです。 彼らの態度は、信仰に入ろうと思った人を遠ざけ、また時々共同体の信者たちも逃げ出させます。

    ですから、もう一度だけ言いますが古い揉め事をやめましょう。 キリストは貪欲な狼の群れの牧者ではなく、柔和な羊の牧者です。 このことを考えた聖ヨハネは次のように書き記しました。  「兄弟を憎む者は暗闇の中におり、暗闇の中を歩む」(1ヨハネ2,11)。  聖ヨハネはまた強調します。 「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。 自分の兄弟を愛さない者は皆、悪魔に属しています」(1ヨハネ3,10)。 「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。 あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません」(1ヨハネ3,15)。 結論として聖ヨハネは断言します。 「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(1ヨハネ4,21)。

    私たちの共同体は他の共同体よりも悪くありませんが、武庫之荘教会の悪い状況が良く知られていて目立つのです。 ですから、待降節と言う恵みの時を利用して、神を喜ばせるために、自分たちの頑固な態度を改めましょう。 一人では回心出来ないので、皆の助けが必要です。 心を改めるには、祈り、自分が受ける赦しと相手に与える赦しに加えて喜びとお互いの歓迎やもて成しが必要です。 洗礼者ヨハネの招きに答えて見せかけなしに「悔い改めにふさわしい実を結びましょう」(マタイ3,8)。 そして、神と隣人への和解の道を通して、完全な喜びにまで導く聖霊の後を歩きましょう。

    「今日、神の声を聞くなら、心を閉じてはなりません」(詩編95,8、ヘブライ3,15)。  私たちが頑固さと反逆を示し続けるなら、神が私たちに与えようとする救いの恵みを失う危険が大きいです。 神は私たちの「打ち砕かれた心を包み」(イザヤ61,1)霊的な病気を治そうとされているので、聖パウロの招きに答えましょう。 神の栄光のために私たちは、心を合わせ、声を揃えましょう。 今日からずっと、偏見を抱かずに、まごころから互いに相手を受け入れましょう。 そうすれば、あっと言う間にクリスマスの恵みが私たちの内に働き始め、そして、全世界の平和と喜びのために、イエスと共に私たちも光の泉となるでしょう。 アーメン。



            待降節第3主日  A  20131215日  グイノ・ジェラール神父

                 イザヤ35,1-610  ヤコブ5,7-10  マタイ11,2-11

    ご自分の使命を始めるイエスは、洗礼者ヨハネが告げたことの反対を行っています。 牢の中に居る洗礼者ヨハネは、自分が弟子たちに示したイエスはメシアかどうかについて、疑い始めました。 何故なら、洗礼者ヨハネは、預言者イザヤの言葉を固く信じていたからです。 メシアは異邦人に対して、そして神に逆らっている人に対しても神の裁きと復讐を行いに来る人です。 洗礼者ヨハネにとっても、また当時の全ての人にとっても、メシアは神の名によって大掃除をする人です。 即ち、メシアは全てを整理し、良い人と悪い人をより分け、ローマ人を追い出し、イスラエルの民の敵を破壊し、そしてイスラエルの国の独立と経済的な豊かさで再建する人です。 洗礼者ヨハネは、それを厳しく告げたにも拘わらず、イエスは結局それを無視しています。

    そこで、洗礼者ヨハネは何を信じるか、何を希望するかを知る為に弟子たちをイエスのところに遣わします。 「来るべき方は、あなたでしょうか。 それとも、他の方を待たなければなりませんか」と洗礼者ヨハネは聞きます。 イエスの答えは明らかです。 自分がイザヤの最も難しい預言を実現していると答えます。 即ち「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、神の国は告げ知らされています」。

    同時にイエスは洗礼者ヨハネを褒めています。 確かに、洗礼者ヨハネは偉大な預言者であり、自分が預言したメシアを見たこともあり、そして彼の言葉を聞いて大勢の人が回心出来ました。 昔の預言者たちは自分たちが告げた預言の実現を見なかったし、もっと悪いことには 彼らの話を聞いて回心しようとする人は全くいませんでした。 確かに洗礼者ヨハネは預言者であり、預言者以上の者です。 洗礼者ヨハネはイエスが実現し始める道を開き整えました。

    数年後、イスラエルの指導者たちとファリザイ派の人々は問題であるイエスをあっと言う間に解決しました。 彼らはイスラエルの民をローマ人の支配から救う方、全ての罪びとに対して神の復讐を行う正義の味方のメシアを待ち望んでいました。 ところが、イエスは彼らの考えているメシアと全く一致しないだけでなく、目立つ罪びとの友達なので、国民が惑わされないようにイエスを殺すべきだと考えました。 安息日を守らない人、異邦人と罪びとの仲間であるイエスは決して預言されたメシアにはなれません。 さらにイエスが行う不思議な奇跡は全て悪霊たちの業だと、大祭司たちや律法学者やファリザイ派の人たちは公に公言します。

    私たちもキリストに対する、またキリストから待ち望むことについて、自分固有の考えを持っているでしょう。 時々、次のようなことを耳にしています。 「キリストが来てから2000年になっても何も変わりませんでした!」 また、ある人がこのように断言します。 「私は信者になってからよく祈りました。 にもかかわらず同じ過ちと罪を犯しているし、更に私が持っている信仰のせいで職場でも家族の中でも理解されずに、やゆされた者となっています」。

    洗礼者ヨハネに答えたようにイエスは私たちに答えます。 「あなたの考え方と眼差しを変えなさい。 神はあなたのようには見ないし、考えないからです」。 神は目指す目的に真っ直ぐ辿り着くために、必ず小道と寄り道を選びます。 イエスはまた私たちに預言者イザヤの励ましの言葉を聞かせます。 「雄々しくあれ、恐れるな。 見よ、神は、あなたたちを救うために来られる。 見よ、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く、歩けない人が鹿のように踊り上がり、口の利けない人が喜び歌う」と。 さあ、イエスの言葉を固く信じましょう。 「神の国は近いです。 神の国はあなた方の間にある」と。 ですから、待たずに直ぐクリスマスの輝く喜びの中に入りましょう。 アーメン。



         待降節第4主日A年   20131222日 グイノ・ジェラール神父

              イザヤ7,10-16  ローマ1,1-7  マタイ1,18-24

    今日私たちは直ぐに生まれる赤ちゃんの両親、ヨセフとマリアを仰ぎ見るように招かれています。  彼らは1516歳の人であり、マリアはイエスに体を与え、ヨセフはイエスに名前を授けます。 全人類がキリストによって贖われ、救われるようにヨセフとマリアが神から選ばれました。 二人は自分たちの内に実現される神秘について真剣に考えています。 「どうして、そのようなことがありえましょうか。 わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ1,34)とマリアは天使に尋ねます。 正しい人であるヨセフはマリアの内に神が行っている業をわずらわせないように引き下がる決心をします。 しかし、天使を遣わすことによって、彼らの悩みを一掃する神は、愛の内に二人が一致するように導きます。 従順と揺るぎない信頼によってマリアとヨセフは神と完全にぴったり合っています。 また偽善を持たない清い愛によって、彼らも互いにぴったり合っています。 さらに、マリアとヨセフは神の言葉とみ旨を行う、忠実な人です。

    ローマ人への手紙の中で使徒パウロは信仰による従順について語ります。 イエスが与えようとする平和と救いの恵みを受ける為にキリストにしっかり一致するように、聖パウロは私たちを説き勧めています。 キリストに結ばれることによって、すべてを聖化する聖霊は、私たちをイエスの神聖な命に与からせます。 実に、私たちがイエスを迎え歓迎するためには、先ずヨセフとマリアを迎え入れるように招かれています。 神の言葉を聞くことで、私たちはイエスの家族となるのです。 「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8,21)とイエスは言いました。 イエスは「肉となった」神の言葉です。 従って、自分の人生にイエスを迎え歓迎する人は、イエスの家族の一員となり、また神の子、マリアの子となるのです。 同じように、キリストの体を食べる人は、イエスと一致して、一つの霊、一つの心、一つの体となります。

    実際に、毎日曜日、私たちはこの神秘を生きています。 この恵みこそは私たちを聖化します。 それは私たちが神のみ旨とぴったりと合わされるためです。 イエスに体を与える為にマリアの心に降った聖霊は、今度、私たちがキリストの体となるように私たちの心に注がれています。 そう言う訳で、ご自分の言葉によって神が私たちを導くように、また私たちは神とぴったり合わされるように、毎日、熱心に祈ることが必要です。

    神が遣わされた天使は心配していたヨセフに、生まれるべき赤ちゃんの二つの名「イエスとインマヌエル」を教えました。 「イエス」は「神は私たちを救う」「インマヌエル」は「神は私たちと共にいる」を意味します。 ですから私たちを救い、私たちと共に留まる神としてイエスを迎え入れましょう。 イエスと言う人は、私たちを幸せな者とするために私たちの不幸と悩みを背負う神ご自身です。

    この隠されている真理を知った私たちが、平和と喜びで包まれますように。 神は清い魂に天の平和と喜びを注ぎたいと望まれますから、もしまだそれをしていないなら、赦しの恵みによって自分たちの魂を急いで清めましょう。 クリスマスの恵みとは、ヨセフとマリアのように、今も死を超えて、後も神の現存で私たちが完全に満たされることです。 アーメン。



         主の降誕(夜半のミサ)A年 20131224日 グイノ・ジェラール神父

              イザヤ9,1-6  テトス2,11-14  ルカ2,1-14

    クリスマスは、神の光の中に全世界をおく誕生日の楽しい祝いです。 丁度9ヶ月前に、洗礼者ヨハネの父ザカリアは次の様に預言しました。 「我らの神の憐れみの心による、この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(ルカ1,78-79)と。 確かにクリスマスは、人間の歴史の最も偉大であり、最も驚くべき出来事を伝える光の祝日です。 何故なら、神が一人の人間になって、全人類と一致するからです。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3,16)と聖ヨハネは宣言します。 同時にクリスマスは「私たちに対する神の慈しみと御心の現われだ」(エフェソ192,7)と聖パウロは説明します。

    ですから今夜、聖ルカと共にイエスの誕生の輝いている神秘を味わいましょう。 ベツレヘムでの誕生はイエスにとって始まりではありません。 目に見える赤ん坊であるイエスが私たちに示される以前から、既に存在していました。 乙女マリアから生まれる前にイエスは、かつて今も永遠に、父と聖霊の愛の交わりの中で生きておられる神です。 そういう訳で、聖ヨハネは自分の福音の初めに次の事を書きました。 「まことの光は世に来てすべての人を照らすのである…み言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1,914)と。

    ベツレヘム、即ち「パンの家」という所で生まれた乳飲み子は私たちの飢えを癒す為に捧げられた「生きたパン」として飼い葉桶の中に眠っています。 私たちが永遠に幸せであるように、この子は世界に与えられている命の光であり、神の平和です。 イエスは人間になった神ご自身です。 私たちを救うために、そして私たちを神の神性と永遠の命に与からせる為に、神であるイエスはこの世にお生まれになりました。 そう言う訳で、天使の群れに声を合わせて、私たちも喜び輝く歌で自分たちの喜びを表しています。

    全人類をご自分の存在で満たす為に来られたイエスは、人々の人生を惑わし混乱させるつもりではありません。 イエスはご自分の時代の人の文明と伝統を尊重するからです。  罪のほかにイエスがあらゆる面で私たちの人生に関わっておられる理由は、私たちが神の眼差しの下に生きることをもう一度教える為です。 私たちの間に住むことによって、イエスは昔アダムの罪によって奪われた「神の子」の尊厳を私たちに返そうとしています。 そういう訳でイエスは私たちの救い主、私たちの贖い主です。 「神が救う」と言う名を受けたイエスは「インマヌエル」即ち「私と共にいる神」です。 イエスの誕生は、世界の歩みを神の方へ新たに方向づけます。

   今夜、ベツレヘムの幼子を仰ぎ見て、神への感謝が私たちの心から溢れ出ますように。  真の神、真の人であるイエスをゆっくり仰ぎ見ましょう。 というのは「人間の人生は神の命に等しいものだ」とイエスの誕生は私たちに教えています。 今夜、神は私たち一人ひとりにイザヤの言葉を借りて打ち明けます。 「あなたはわたしの目に価高く、貴く、わたしはあなたを愛していますから」(イザヤ43,4)。

   イエスが私たちにとても似ていることを確かめながら、私たちがイエスに慣れるように努力しましょう。 それは世界の人々に神の顔を示すためです。 「人間が神になるように、神は先に人間となりました」と司教アタナズは言いました。 確かに、神と私たちとの間に「愛の秘密」があります。 私たちが造られたのは神の神性と命に今からずっと親密に与かるためです。

   肉となった神の言葉を、信仰を持って聞くことによって、私たちはイエスの母、兄弟、姉妹となります。 キリストの体の拝領によって、実際に私たちはキリストの体となります。 ですから、絶えず神に感謝しましょう。 クリスマスの喜び、光と平和が、私たちの心を満たしますように。 今夜、私たちは大きな光を持っています。 その光の名は「希望」です。 自分の周りの至る所で、神の喜びと平和を隅々まで広めながら、イエスの光輝く証人となりましょう。 アーメン。


        聖家族の祝日、神の母マリアの祝日、主の公現の祝日,主の洗礼の祝日の説教は 特別の祝いのページにあります。



       四旬節第1主日    201439日    グイノ・ジェラール神父

          創世記 2,7-93,1-71-4  ローマ 5,12-19  マタイ 4,1-11

   5世紀の初めローマで、A年の四旬節朗読の読む箇所の順番が考えられました。 特に聖土曜日の夜に洗礼を受ける洗礼志願者たちのため、及び公に重大な罪を犯した罪びとのために、この典礼は定められました。 実際にこの罪びとたちは、教会の交わりから追い出され、一年間の長く厳しい償いの生活を送ったのち、聖木曜日に公に教会の門の前で司教によって罪の赦しを受けることが出来、その後、復活祭の日に、もう一度、以前のように聖体拝領をする許可をもらいました。そういう訳で、四旬節の日曜日に宣言される朗読は、洗礼志願者と回心を目指している罪びとが歩むべき道を教えています。

  こうして今日の福音は、神への信仰を宣言する事とサタンを力強く退けることを私たちに要求します。 来週の主の変容について語る福音は、皆に励ましの言葉と素晴らしい約束を与えます。 四旬節の第3主日から第5主日までの三つの大切な福音は、洗礼の秘跡を受ける準備をしています。 即ち、イエスとサマリア人との対話や生まれつきの盲人の癒しや生き返ったラザロの物語は、洗礼志願者と罪を悔い改める人々の回心の歩みを教えています。

  既に、今日私たちは誘惑の話を二つ耳にしました。 最初の物語は、神の言葉を忠実に守らなかったアダムとエヴァの過ちを私たちに思い起こさせました。 第二の話は、神の言葉を武器として使い、サタンの攻撃を追い払ったイエスを模範として示しました。 確かに、誘惑に簡単に陥る人々にどのようにして誘惑に打ち勝つことが出来るのかを、イエスは教えています。 神の言葉が力であり、それには地獄の力は全く何も対抗できません。 この教えは、洗礼志願者と罪びとである全てのキリスト者にも、当てはまるのです。 この四旬節の時は、本当に回心と償いの時であると同時に、神の言葉の力を再発見する恵みの時でもあります。

  さて、エデンの園と砂漠の誘惑はよく似ています。 「わたしの声に従いなさい」と人間の耳にささやくサタンに、イエスは権威を持って「神の言葉を聞きなさい」と答えます。 この二つの声の後ろに二つの霊があります。 それは真理と命である「神の霊」と、幻と幻覚によって人間を騙しながら死に導く「偽りの霊」です。 全ての人々の内にこの二つの霊が競い合い、私たちの日常生活の選びに強くかかわり、善の道へ導いたり、悪の道へ誘ったりするのです。 私たちは自分の野望を満たす自己満足や自分の高慢を養う道に従うことは容易く出来ます。 しかしイエスは私たちを神の似姿に返し、謙遜に聖化させ、自由の道に従うように願っています。

   誘惑は私たちに、神を選ぶか選ばないかを確かめる機会を与えます。 誘惑を退ける為に祈りや断食や節制は確かで丈夫な武器です。 残念ですが私たちは往々にして神の愛する子供であることを忘れがちです。 実際、私たちは神の言葉を充分に黙想し、思い巡らしていないので誘惑が襲って来る時、私たちは無力で、傷つき易いのです。 もし、聖書を持っているなら、本棚に置きっぱなしするのではなく、み言葉を自分の心に刻むべきです。 キリスト者は決して神の言葉から遠く離れてはいけません。 なぜなら「神の言葉が私たちの足のともしび、わたしたちの道の光」(詩編119,105)だからです。 神の言葉はいつも私たちに一つの永遠の愛の契約を提案します。

   確かに、神の言葉は命と愛で満たされ、あらゆる種類の祝福で溢れています。 誘惑者であるサタンの言葉は、妬みと死で満たされ、自己主義、偽りと自己満足を生み出します。 どの時代の人間でもすべての世紀のアダムである私たちは、いつも自分の存在と幸せな未来を築くために自分自身の力だけで働こうとします。 しかし、自分に対する神の計画が自分の最も美しい夢を遥かに超えていることをよく知っているキリスト者は、もし神の助けなしに自分の人生を築こうとするなら、あっと言う間に罪びととなることも知っています。ですから、四旬節の間に、祈りと神の言葉の黙想や朗読によって、私たちに対する神のみ旨を知るように努力しましょう。 アーメン。



      四旬節第2主日A年       2014316日  グイノ・ジェラール神父

           創世記12,1-4  2ティモテ1,8-10  マタイ17,1-9

   どこへ行くのか知らずにアブラハムは出発しました。 神の言葉を唯一の支えとして、神が自分を導くところをアブラハムが目指しています。 このように神はすべての人に目的地に辿り着くことではなく、出発することを要求します。 信仰とは、神が自分の道ずれの友となっている冒険です。 信仰とは、神が与えようとしている約束された地の方へ絶えず進むことです。

  謙遜に神と歩み続ける人に、神は必ずご自身を啓示します。 しかし、私たちは次に必要な一歩を歩むために、神がほんの少ししか啓示しません。 私たちの忠実さに応じて神が段々自分を示しますが、それは私たちが増々神を探し求めるためです。 このように自分の弟子たちを信仰の内に成長させるために、イエスは少しずつ自分自身を啓示しました。 イエスのご変容は、弟子たちがイエスの内に神が実現する救いの神秘を理解させると同時に、彼らの信仰を強める目的を持っています。 「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました」と聖パウロは友のティモテに書きました。

  イエスの変容された顔は、神の現存を啓示します。 イエスの顔を見たペトロ、ヤコブ、ヨハネは「イエスの顔は太陽のように輝いていた」と証ししました。 復活の朝の時に集まっている弟子たちは、皆この輝いている顔をもう一度見るでしょう。 この顔を見た人々は決してそれを忘れることが出来ません。 ですから、人々の妬みや受難の苦しみによってイエスの歪んだ顔を見る前に、弟子たちは神のみ旨を完全に実現するキリストの顔の栄光を見なければなりませんでした。

  ご自分に対する神の計画と完全にぴったりするので、イエスは完全に変容されました。 同様に私たちも神のみ旨を忠実に行うことによって、いつか変容されるでしょう。 なぜなら、神が私たちの内にご自分の愛を注ぎたいからです。 確かに父なる神は、私たち一人ひとりに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者です」と打ち明けます。 しかし私たちはそれを充分信じているでしょうか?

  イエスの役割は、私たちが皆「神の近い者」とすることです。 イエスは信頼を持って神に祈っているので、完全に変容されました。 というのは、祈る人は神の現存の中に入る人です。 確かにご自分に祈る人には、神が待たずに応えます。 その応えは具体的に言えば、祈った人の顔に神の栄光の輝きが残ります。 このように顔と顔を合わせて神と語ったモーゼの顔は、いつも輝いていました(出エジプト34,29)。

  イエスに結ばれた私たちは、自分たちの変容の方へ進んでいます。 しかしそれはいつも信仰の夜の中で行われているのです。 神の栄光の強い輝き、神の愛の栄光の輝きは私たちの人生の奥深くに留まっています。 「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」(コロサイ3,3-4)と聖パウロはコロサイの信徒へ教えています。

  イエスの内に洗礼を受けた人々は皆、あるときには愛によって変容された顔を持っている、他の時には苦しみによって歪んだ顔も持っています。 しかし、私たちは死の妨げを乗り越えさせる神の祝福の力の下に、安全に置かれています。 信仰の道のりの中で私たちは喜びと悲しみ、成功と失敗、幸せと不幸に出会うでしょう。 しかし、神の力が私たちを伴うので、私たちは新しい出発をする飛躍を持っています。 お互いに愛し合うことによって、私たちの顔が神によって愛されている幸せを、皆に反映しますように。 アーメン。



     四旬節第3の主日 A年  2014323日    グイノ・ジェラール神父

        出エジプト17,3-7  ローマ5,1-2,5-8  ヨハネ4,5-42

   聖書の物語を通して神はいつも「生きた水の泉」としてご自身を紹介なさいます。 預言者イザヤの話によると「神は不毛の高原に大河を開き、谷あいの野に泉を湧き出せる。 荒れ野を湖とし、乾いた地を水の源とする」(イザヤ41,18)。 モーゼの岩であろうと、サマリアの女の井戸であろうと、水の象徴を通して神は人間に次の事を教えます。 ちょうど人間が水なしに生きることが出来ないように、愛で満ちている神の現存なしに、人間が生き残ることは到底無理です。

   そういう訳で、教会の典礼は私たちが絶えず「神のみ言葉の井戸」から、ご聖体の秘跡によって私たちの内にある「神の現存の井戸」まで移動するように誘っています。 「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4,13-14)とイエスは約束します。 私たちは信仰の生活と日常生活を別々にする傾向を持っています。 しかし信仰と日常生活は堅く絡み合っています。 それをよく理解した聖パウロは次のように勧めます。 「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(1コリント10,31)と。

   身体的な渇きがあれば、霊的な渇きもあります。 聖書はそれを「神への渇き」と名付けました。 同時に、憩いがなく、安らぎがなく、敵対しているような霊的な砂漠の中に、信じる人を置く霊的な疲れがあります。 その時、祈ることは難しくなり、無理となる可能性があります。 この状態で信じる人は、全く慰めも励ましも受けられません。 しかし今日の第一の朗読は、このような酷い状態の中に置かれても、人は生き生きとよみがえることが可能だと教えています。 生きた水の泉である神は、人の飢えと渇きを満たさずに、そのままの状態には決してなさいません。 信仰の試練のすぐ後に、渇いた地であった魂に、いつも雨の恵みの豊かさが与えられています。

   聖パウロは水を流すモーゼの岩の内にキリストの象徴を見分けました。 聖パウロはコリント教会の人々に書きました。 「ヘブライ人は皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。 彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」(1コリント10,4)と。 ヘブライ人は、それを知りませんでしたが、キリストご自身が彼らの霊的な生活の泉でした。 そしてイエスは皆の渇きを癒しました。 その上、不思議なことですが、砂漠横断の時からずっと約束の地まで、岩であったキリストはヘブライ人の後に従ったと聖パウロは証しします。 イスラエルの民を追いかけるこの歩く岩が、私たちが居るところにイエスも一緒にいることを意味します。 試練の真っ只中に居ても、慰めと励ましを与えるようにイエスは私たちのすぐ傍におられます。 他の所でイエスを探し求める必要はありません。

   サマリアの女にイエスは自分が永遠に人を生かす、生きた水の泉であることを説明しました。 このように話すイエスは自分の神性
、即ち自分が神であることを彼女に打ち明けました。 何故なら、人を永遠に生かすことの出来る方は神しかありませんから。 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と、聖パウロは第二の朗読を通して思い起こさせます。 この愛を見付けるために、遠い国まで長い巡礼をする必要はありません。 また、この愛の生きた水を豊かに汲むために、深い井戸を捜しに行く必要もありません。

    実に、生きた水の泉は私たちの居る所で、私たちの内にあります。 確かに、キリストの体の部分であり、キリストの弟子である私たちの内に生きた水の泉が湧き出ます。  しかし、自分たちの内にあるこの命の泉は、私たちのものではありません。 私たちの内にあるこの命は、神の賜物であり、神ご自身の命です。 ですから、試練の時、霊的な暗闇と憩いの場所のない霊的な砂漠に置かれても、私たちは自分の内に神の計り知れない宝物を持っていることを忘れてはいけません。 祈り、黙想、沈黙、神への委ねによって、私たちの内にある愛の深い井戸から、イエスが無償で与えるこの命の水を豊かに汲みましょう。 アーメン。



    四旬節第4主日A年   A年  2014330日   グイノ・ジェラール神父

        1サムエル16,1,6-7,10-13  エフェソ5,8-14  ヨハネ9,1-41

   前の日曜日、聖ヨハネは私たちに水の象徴を提案していました。 今日、聖ヨハネは光の象徴について考えるように招きます。 信仰は、神の愛によって照らされた眼差しに親密に結ばれています。 聖パウロは 洗礼を受けたことによって私たちが光の子となったことを思い起こさせます。 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。 光の子として歩みなさい」と。

   今日の福音を通して、ご自分が「世の光である」ことをイエスは宣言します。 この宣言に先立つ長い物語は二つの事を教えます。 まず、生まれつき目の見えない人が、神の言葉に癒された後に、どのようにして信仰の光に達したかという事。 そして、癒された人を囲んで、しつように質問する人々が、どのようにしてこの奇跡によって目の見えない人にされたかという事です。

   この生まれつき目の見えない人は、イエスに何も願いませんでした。 イエスは彼を見つけて、勝手に、彼の目の視力を回復することを決めました。 彼の目に泥を塗ることによって、イエスは創世記の物語に書かれた「人間の創造」を思い起こさせます。 言い換えれば、この泥でイエスは創造的な動作を行います。 そう言う訳で生まれつき目の見えない人は、イエスが出会い、触れ、癒す全人類の象徴です。 「み言葉は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1,9)と聖ヨハネが自分の福音の始めに書き記して証ししています。

   目を癒すことは一つのことであり、眼差しを直すこととは別のことです。 私たちの目で、私たちは世界や人々や色々な出来事を見ることが出来ます。 しかし、私たちの眼差しは偏見で満たされているので、目の前にあるものを時々悪く見るようになります。 生まれつき目の見えない人をよく知っていた人々が、彼をよく見ても彼に対して自分たちの眼差しを変えようとしないので、その人々は彼は違う人だと主張します。

   目の見えない人はシロアムの池の水で自分の目を洗うことによって、彼が、後でイエスについて証しする光を自分の心の中に満たしました。 そのためにイエスは、癒された人を信仰の完璧さに導くために、彼ともう一度出会うことを決めます。 彼に「人の子は、もうあなたはその人を見ている。 あなたと話しているのが、その人だ、私です」(ヨハネ9,35-37参照)と言います。 イエスについて証しをする人は、必ずキリストと個人的に出会います。

   「神は人間が見るようには見ない。 人は目にうつることを見るが、主は心によって見る」(1サムエル16,7)と言うことをサムエル記の話が私たちに思い起こさせます。 ですから、イエスが私たちを見、私たちの眼差しを変えるように、イエスの憐み深い眼差しの下で留まりましょう。 実際、人々と色々な出来事に対して、私たちが注ぐ眼差しを清めるように、今日の福音は私たちを招いています。 神が見る眼差しで私たちも見るように学びましょう。

   信仰の道は、いつも眼差しの変化を通して導きます。 キリスト者は自分が目の見えない人にならないように、また偏見にとらわれて片寄った狭い物の見方をして生きることのないように、絶えず自分自身を乗り越えるように召されています。 この面で、私たち一人ひとりが自分自身を内面的に見、そして、自分の眼差しの質について自問する必要性があります。 もし、神がこの世を見ているように私たちも同じ目で見るなら、きっと人々はびっくりして次のように私たちに言うでしょう。 「どうしてあなたはこのような憐み深い眼差しで 世界と人々と出来事を見ているでしょうか?」と。 たぶん他の人は次のように述べるでしょう。 「この人は完全に変わった!」。 その時あなたは福音の盲人のように、彼らに答えるでしょう。 「確かに私です。 イエスが私を照らして私の眼差しを変えました。  私はイエスを固く信じています。 イエスが私の救い主、私の神です」と。

   今日の四旬節の典礼は、私たちを暗闇から光へ移しながら、ずっと光を目指して歩み続けるように、私たちを招いています。 生まれつき目の見えない私たちは、受けた洗礼によって癒されました。 ですからキリストの眼差しで、また福音の盲人の開かれた心の目で、この世と日常生活の出来事と他者と自分自身をも憐み深く見るように学びましょう。 そして助けの必要な人が私たちを呼ぶことを待たずに、キリストに倣って憐れみを持って、その人を助ける決意をしましょう。 アーメン。



        四旬節第5主日A年    201446日    グイノ・ジェラール神父

             エゼキエル37,12-14  ローマ8,8-11  ヨハネ11,1-45

     私たちは命が値打ちを失ったような世界に生きています。 一握りのお金の為に人が殺され、虐めの為に人が命を捨てる。 他の人が誰も気が付かないので孤独の中に死にます。 死は身体的だけではなく、魂と心の死もあります。 また希望の死、熱情の死、生きる喜びの死もあります。 さらにまだ生きているのに大勢の人はゾンビのように既に死んでいるのです。 即ち彼らの唇には微笑みを見つけることなく、彼らの口から優しい言葉が出ず、他人に対する信頼を失っていて、光の方へ進む希望を持っていません。 イエスは特にこのような人たちと私たちの両方に「わたしは命であり、復活である」と宣言します。

    既に旧約聖書を通して神はご自分が命の泉であることを断言しました。 復活の恵みを私たちに約束することによってそれを保証します。 「わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と。 私たちの神は命の主であり、死者の神ではなく生きている者の神です。 神はどうしても私たちをご自分の命に与る者とする理由は、神の命を滅ぼすものが全くないからです。

    勿論、死が避けられないのでイエスは勝利を持つ者として現れます。 その為に聖パウロは私たちに希望で溢れるこの言葉を残していました。 「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は。 あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。 新約聖書を通して、イエスはいつも悪の力と死に打ち勝つ者として現れます。 ラザロをよみがえらせることによって、イエスは私たちの信仰を要求します。 イエスは私たち一人ひとりに次のように尋ねます。 「わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか」と。

    ラザロが復活すると言ったイエスに対して、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。 マルタは遠い未来の内に自分の希望を置いたので、イエスは彼女を現在の時に引き戻らせます。 「わたしは復活であり、命である」と宣言します。 と言うのは、復活は終わりの時に行われる特別な出来事よりも、特にある方です。 即ち、ラザロの復活、あなた方と私の復活は、それはイエスご自身です。 キリストと繋がっている人は既に、父なる神にキリストを一致させている永遠の絆に与っているのです。 復活とは、神との絆の出来事であると同時に個人的な出来事でもあります。 「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と。 復活に於ける信仰は、イエスが自分の救い主、自分の神であることを信じることです。 復活されたキリストを見たトマスのように、私たちも信仰を持って「イエスよ、あなたは私の主、私の神」と叫ぶ筈です。

    苦しみや試練たちが強すぎた時、またマリアとマルタのように主がなにもしないことを咎める力を失った時、さらに涙を流すことも出来ない時こそ、イエスを良く見てみましょう。 ある種類の涙を流すことは良いことです。 それは苦しみを養い、その内に留まる為ではなく、むしろその苦しみを涙を通して主に委ねるためです。

    私たちを圧迫する重荷から解放するために、イエスはその重いものがどこにあるかを知りたいのです。 「どこに葬ったのか?」あなたの苦しみやあなたの傷をどこに葬ったのかと、イエスは尋ねます。 「主よ、来てごらんなさい」と私たちは答えるべきです。 まだ閉じている墓の石を取り除くのは私たち自身です。 それはラザロと言う名で葬られた苦しみがキリストの光を受ける為です。 もし、私たちが命を選ぶなら、その時イエスは父なる神に感謝して全てを新たにする叫びを叫ぶでしょう。 「ラザロ、出て来なさい」と。

    四旬節は確かに私たちが偽りの安全の墓から出るように、キリストの招きを聞く時です。 ですから、自分が作った墓から出て、昔受けた傷や罪が生み出す悔やみや自分に閉じこもる態度という私たちの手と足を巻いているバンドを解きましょう。 復活祭はとても近いです。 今は神の言葉が、私たちの内に神の息子としての神聖的な絆を新たにする時です。 永遠の命とは、唯一のまことの神でおられる「父である」あなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17,3)。 アーメン。




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